福岡地方裁判所小倉支部 平成7年(ワ)750号 判決 2000年7月13日
原告
甲野花子(仮名)(X)
右訴訟代理人弁護士
小野裕樹
同
古閑敬仁
同
山本晴太
同
古本栄一
同
稲津高大
被告
北九州市
右代表者市長
末吉興一
被告
乙山太郎(仮名)(Y1)
同
丙川次郎(仮名)(Y2)
右被告ら訴訟代理人弁護士
山口定男
同
立川康彦
被告北九州市指定代理人
桑山裕司
同
松尾康弘
同
田代清一郎
同
大畑耕一
同
森永康裕
主文
一 被告北九州市は、原告に対し、金五五万円及びこれに対する平成七年七月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告の被告北九州市に対するその余の請求、被告乙山太郎及び被告丙川次郎に対する各請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その四を原告、その一を被告北九州市の各負担とする。
四 この判決は第一項に限り仮に執行することができる。
ただし、被告北九州市が金三五万円の担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。
事実及び理由
第一 請求
一 被告らは、原告に対し、連帯して金二二〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日(平成七年七月二八日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告北九州市は、原告に対し、金二二〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日(平成七年七月二八日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、市立養護学校教諭である原告が、他校と共同して行われた研究発表の際、憲法九条の文言等を記載したシャツを着用して会場ステージ上に登壇しようとしたのを、同校の校長(被告乙山太郎)及び教頭(被告丙川次郎)から腕を引っ張られるなどして制止され、このとき上腕打撲等の傷害を負ったことにつき、右制止行為は原告の表現の自由、教育の自由等を侵害する違法な行為であるとして、民法七〇九条、七一九条及び国家賠償法一条に基づき被告らに対し慰謝料等の損害賠償の支払を求め、さらに北九州市教育委員会が右シャツの着用について文書訓告を受けたことにつき、右文書訓告は理由のない違法な措置であるとして、国家賠償法一条に基づき被告北九州市に対し慰謝料等の損害賠償の支払を求めた事案である。
一 争いのない事実、〔証拠略〕により認められる事実
1 当事者等
(一) 原告は、昭和四九年に福岡教育大学小学校教員養成課程を卒業し、同年大阪府富田林市立金剛中学校教諭に採用され、富田林市立小学校勤務を経て昭和五二年四月に北九州市教育委員会(以下「市教委」という。)に採用され、平成三年四月から平成一〇年三月にかけて、北九州市立小倉北養護学校に教諭として勤務していた。
(二) 小倉北養護学校は、小学部、中学部及び高等部からなる養護学校で、集団指導の際は小学部低学年(一学年から三学年、以下「低学年」という。)、小学部高学年(四学年から六学年、以下「高学年」という。)、中学部及び高等部の四ブロックを基本単位とし、昭和五八年度から他校との交流教育を開始し、北九州市立到津小学校との間では、昭和五九年度から両校生徒が相互に相手校を訪問するなどの交流教育を実施していた。
原告は、小倉北養護学校着任当初から、各ブロックの教員二名、合計八名で構成され、交流教育の計画・立案等を行う交流教育部を担当した。
(三) 被告乙山太郎は、平成六年頃、小倉北養護学校の校長であり、被告丙川次郎は同校の教頭であった(争いがない)。
2 文部省は、平成五年頃、小・中学校の児童生徒に心身障害児に対する正しい理解と認識を深めさせるための指導のあり方の研究を目的として、推進校を指定して研究を委嘱し、周辺の養護学校をその協力校とする心身障害児理解推進研究を実施していた。
小倉北養護学校は、平成五年二月頃、北九州市立井堀小学校が右推進校に指定され、小倉北養護学校が協力校とされるとの内示を受け、右内示は同校教員に伝えられた。
3(一) 井堀小学校は、平成五年六月頃、文部省から推進校に指定するとの正式な通知を受け、小倉北養護学校に対し、全学年を対象とした交流を申し出た。しかし、小倉北養護学校は既に到津小学校を相手方とする交流を計画していたため、調整の結果、低学年は井堀小学校のみを交流相手校とするが、高学年は、到津小学校との交流を主とし、平成五年度は井堀小学校の児童が小倉北養護学校に来校したときに協力する程度とした。
右委嘱研究においては、井堀小学校児童と小倉北養護学校児童の交流活動の場を紹介する公開授業及び両校教諭による研究発表からなる心身障害児理解推進研究発表会(以下「研究発表会」という。)を平成六年度に行うことが予定されていた。
(二) 井堀小学校と小倉北養護学校との交流教育は、平成五年九月一三日の全体での集会を初めとして平成六年度にかけて行われた。
低学年においては、平成五年度及び平成六年度のいずれも井堀小学校のみを交流相手校とし、平成五年度は右集会外六回、平成六年度は月一、二回程度の合計一一回、図画工作の共同授業、休み時間を利用した交流等が実施された。
高学年においては、平成五年度は到津小学校を主な交流相手校とし、井堀小学校の生徒との直接交流は同校の生徒が小倉北養護学校を訪れた一回にとどまり、平成六年度は、到津小学校との交流と並行して、井堀小学校との間でも、各学年毎に四回ないし六回、図画工作、音楽の共同授業等の直接交流が実施された。
(三) 小倉北養護学校の平成五年度及び平成六年度の交流教育の目標は「共に生きる社会の実現と、障害者差別の解消を目指す。」というもので、井堀小学校の研究主題は「思いやりの心を培い、豊かに表現する児童の育成」というものであった(争いがない)。
原告ら小倉北養護学校教員は、委嘱研究開始当初から、井堀小学校の研究主題は小倉北養護学校の生徒を井堀小学校の生徒の教材として使うものであるなどとして、再検討を申し入れた。
原告は、平成六年七月頃、井堀小学校側が指導案を提示し、指導者として同校の教員と共に小倉北養護学校の教員を併記することを提案したのに対し、基本的な教育方針について検討がされておらず、研究の方向が見えないなどと述べ、これを拒否した。
4 被告乙山及び被告丙川は、研究発表会が平成六年一〇月一八日に井堀小学校において開催されることになったため、同年七月頃、一旦は金田昭子教諭(以下「金田教諭」という。)のみを発表者とすることとしたが、金田教諭から高学年については担当していないので発表しにくい旨の申出があったことなどから、同年九月頃、被告丙川、原告及び金田教諭の三者で協議し、小倉北養護学校の概要、交流教育の方針及び井堀小学校との低学年の交流活動を金田教諭が一五分間程度で、同校高学年との交流及びまとめを原告が五分間程度で発表することとなった。
5 平成六年一〇月一一日、井堀小学校において研究発表会のリハーサルが行われ、原告もこれに参加した(争いがない)。
原告は、右リハーサルにおいて、高学年の交流について、教師サイドで論議や共通理解が十分でないこと、井堀小学校との交流が制限された条件の中での取組みとならざるを得なかったことなどを述べた
6 被告丙川は、研究発表会前日の同月一七日、原告に対し、発表の際に井掘小学校の取組みに対する感謝のことばを付け加えるよう指示し、これに反対する原告と三〇分程度話し合ったが、原告は右指示に応じなかった。
7 研究発表会当日
(一) 平成六年一〇月一八日、井堀小学校において、午前中に各学年による公開授業が、午後に研究発表会が行われた。五学年の公開授業は、両校の生徒が井堀小学校家庭科室において白玉だんごを作るというもので、原告もこれに参加した。
原告は、五学年の公開授業に参加した際、左胸に「戦争を永久に放棄する 日本国憲法第九条」の文字が縦四・五センチメートル、横七・五センチメートル程の大きさで記載され、背中の襟の下に猫のイラスト入りで「せんそうはいやだニャー」と縦四センチメートル、横六・五センチメートル程の大きさで記載されたグレーのポロシャツ(以下「本件ポロシャツという。)を着用していた(争いがない)。
市教委指導部主幹原岡毅、梅本部長及び他校の校長の一部は、被告乙山に対し、原告が本件ポロシャツを着用していることを指摘した。
(二) 原告は、同日午前中の公開授業終了後、小倉北養護学校に戻ったところ、被告乙山及び被告丙川から、同日午後〇時頃から午後一時一五分頃にかけて数回にわたり、本件ポロシャツは発表会にふさわしくない、あるいは本件ポロシャツの字句が政治的主張であるとして別の服装に着替えるように言われたが、そのままの服装で井堀小学校に向かった。
(三) 原告は、同日午後一時三〇分頃、本件ポロシャツを着用したまま研究発表会会場である井堀小学校体育館に入場しようとしたところ、原岡主幹から、本件ポロシャツの字句が問題であると言われたが、そのままの服装で入場した。
井堀小学校体育館は、ステージ奥から正面の出入り口まで約三四メートル、ステージの奥行き約四・三メートル、横幅約二〇メートルで、発表者は、客席から向かって右側に設置された高さ一メートルほどの発表台の後ろに立ち、場合によっては演壇中央に設置されたOHPを使用しながら発表を行うというもので、演壇から客席の最前列までは、水平距離にして約五、六メートル程度であった。
(四) 原告が同日午後一時三〇分頃、体育館内のいすに着席していたところ、被告乙山は、原告に対し、職務命令であることを明示して、本件ポロシャツを着用して発表することを禁じ(以下、被告乙山又は被告丙川による同趣旨の職務命令を「本件職務命令」という。)、体育館から出るよう述べ、原告の腕をつかんで体育館から連れ出そうとしたが、原告はステージに向かった。
(五) 被告乙山は、原告の前の発表者である金田教諭の発表中、体育館ステージ横で、再度原告に対し本件ポロシャツを着替えるよう述べ、さらに被告丙川が来て、本件ポロシャツの字句が見えないようにほかの職員の上着を羽織るよう、また、金田教諭の上着を借りるよう指示したが、原告は応じなかった。
金田教諭による発表後、原告が登壇しようとしたところ、被告乙山及び被告丙川は、原告の腕や肩を引くなどして制止し、結局原告の発表は行われなかった(以下、被告乙山又は被告丙川が原告の登壇・発表を制止した行為を「本件制止行為」という。)。
原告は、本件制止行為の際、被告乙山又は被告丙川に腕をつかまれ、またこれを振り払った際に右手をいすに打ちつけ、このため、右手中指関節部が赤く腫れ上がり、右手首の内側、右肘付近及び左腕内側にそれぞれ赤斑を生じた。原告は、即日、北九州市小倉北区内の健和会大手町病院で診察を受け、両前腕の圧迫による挫傷、右第三指の打撲及び皮下出血により五日間の安静加療を要する旨の診断書の発行を受けた。
8 本件訓告
(一) 市教委の事務局学務部主幹小石原善徳及び山本管理係長は、平成六年一二月一五日、小倉北養護学校において、原告から本件制止行為に関する事実経過を聴取した。
(二) 市教委は、平成六年一二月二四日、原告に対し、「訓告」と題し、「平成六年一〇月一八日に井堀小学校で行われた心身障害児理解推進校公開研究発表会において、反戦を主張する言葉入りのシャツを着用して出席し、着替えるように校長から再三命じられたにもかかわらず、そのシャツを着用したまま発表の壇上に上がろうとした。このことは、教育公務員としてふさわしくない行為であり、それを注意した校長の命令に従わなかったことは、誠に遺憾である。今後再びかかることのないよう訓告する。」と記載された書面を交付した(以下「本件訓告」という。)。
二 当事者の主張
1 原告
(一) 本件職務命令及び本件制止行為の違法性
(1) 被告乙山及び被告丙川が、暴力を用いてまで原告の発表を妨害したのは、同被告らにおいて原告が発表しようとした内容を嫌悪したからであり、本件ポロシャツの字句は口実にすぎなかった。
(2) 小倉北養護学校の教育実践に関する右発表は、原告の教師としての教育活動の一環であり、その発表の妨害は憲法二六条の教育の自由を侵害し、教育基本法一〇条第一項で禁じられた教育活動に対する不当な支配であるとともに、教員の研修権を保障した教育公務員特例法一九条第一項、二〇条第一項に実質的に違反する点でも違法であり、憲法二一条の表現の自由の侵害でもある違法な行為である。
(二) 本件訓告の違法性
(1) 政治的表現の自由は民主制の基礎をなす重要な人権であるから、公務員については、行政の中立確保等の目的に基づく制約があるとしても、その制約は最小限度にとどめられるべきであり、法律もしくは人事院規則で明確に禁止されていない行為は自由であると解すべきであるところ、憲法九条を巡る改憲論は、いずれも同条第二項の改訂を主張するものであるから、憲法九条第一項の文言及び戦争一般を忌避する文言を記載した本件ポロシャツの着用は右改憲論とは関係なく、人事院規則にいう「政治上の主義主張」「特定の政策」には該当せず、禁止された行為には該当しない。また、一方で公務員に憲法尊重擁護義務を負わせている憲法が、他方で憲法の破壊を意味する右主張に対して公務員に中立を要求していると考えることは不可能である。したがって、原告が本件ポロシャツを着用した行為は公務員の政治的中立性に反するものではない。
(2) 本件職務命令は原告の表現の自由及び服装の自由という憲法一三条、二一条で保障された基本的人権を侵害する違法な命令であるから、かかる違法な職務命令については、公務員は自己の責任において服従を拒否できると解すべきである。
(3) よって、本件訓告は違法である。
(三) 被告らの責任
(1) 被告北九州市の責任
市教委が行った本件訓告並びに被告乙山及び被告丙川の暴行・発表妨害は違法であり、これらはいずれも被告北九州市の公務員として行われた行為であるから、被告北九州市は、国家賠償法一条に基づき、右の各加害行為により生じた原告の損害を賠償する義務を負う。
(2) 被告乙山及び被告丙川の個人責任
公務員の被害者に対する直接の賠償責任の免責は、公務員の責任意識を薄弱にするおそれがあり、国家賠償法の有する公務員への監督作用を阻害することになること、民法七一五条との一貫性及び憲法一四条の見地から、国家賠償法は、少なくとも故意・重過失の場合には公務員の個人責任を否定していないと解するのが妥当であり、故意の暴行により発表妨害をした被告乙山及び被告丙川は、個人として原告に対する賠償責任を負うべきである。
(四) 原告の損害
(1) 原告は被告乙山及び被告丙川の暴行及び発表妨害により著しい精神的、肉体的苦痛を被った。これらをあえて金銭に換算すれば、少なくとも二〇〇万円を下らない。
(2) また、原告は市教委による違法な本件訓告により著しい精神的苦痛を受け、人格的名誉を侵害された。これらをあえて金銭に換算すれば、少なくとも二〇〇万円を下らない。
(3) 原告はこれらの損害の回復のため弁護士を依頼し、日本弁護士連合会の報酬基準によって報酬を支払う旨約した。これらのうち被告らに負担させる額としては、右1、2についてそれぞれ請求額の各一割が相当である。
2 被告ら
(一) 本件制止行為の適法性
(1) 本件制止行為の目的は、原告が本件ポロシャツを着用して発表するのを制止することにあったのであり、原告の発表内容とは関係がない。
(2) 被告乙山及び被告丙川は、原告の発表時間が間近に迫っている状況の中で何とか原告に発表させるため、本件ポロシャツを着用しないか、又は上着を羽織るよう指導を続けたが、原告がこの指導を一切聞き入れず、自らの発表時間が来るや強引に登壇しようとしたため、これを制止しようとして前記のような行動に出たのであって、これは、あくまでも原告に発表させるために行った指導の延長上にある正当な職務行為の範囲内である。
原告が負傷する結果になったのは、原告が本件職務命令を拒否しようとして強引に被告乙山及び被告丙川の手を払いのけ、本件ポロシャツを着用したまま登壇して発表しようとした、原告自身の行為によるのであるから、右被告らの行為が不法行為に該当するということはできない。
(二) 本件訓告の適法性
(1) 本件職務命令は、小倉北養護学校の代表者として発表する予定であった原告に対し、原告の上司である被告乙山及び被告丙川が、研究発表会に参加するという職務に関する一般的服務事項として、政治的中立性に疑義を持たせるような本件ポロシャツを着替えるよう、職務命令であることを明確に示して口頭により発したものであって、重大かつ明白な瑕疵はなく、何ら違法な点はない。
(2) 市教委は、公開授業及び研究発表会に本件ポロシャツを着用して参加し、本件職務命令にも関わらず本件ポロシャツを着替えなかった原告の行為が公務員として上司の職務命令に従う義務(地方公務員法三二条)に違反し、また政治的中立性を求められる教育公務員としてふさわしくない行為であり、研究発表会の参加者に対して不信の念を抱かせ、ひいては北九州市の学校教育に対する市民の信頼を著しく失墜させるものであり、信用失墜行為(地方公務員法三三条)に該当するとして、原告に対し本件訓告の措置を行ったのであり、何ら違法ではない。
(三) 被告らの責任
(1) 被告北九州市の責任
本件制止行為及び本件訓告はいずれも違法な行為ではないから、被告北九州市は国家賠償法上の責任を負わない。
(2) 被告乙山及び被告丙川の個人責任
本件における被告乙山及び被告丙川の行為は小倉北養護学校の校長、教頭の立場で職務上なされたものであり、被告乙山及び被告丙川個人に対する民法七〇九条等に基づく損害賠償請求は認められない。
第三 当裁判所の判断
一 本件職務命令について
1 原告が平成六年一〇月一八日午後一時三〇分頃、井堀小学校で開催された心身障害児理解推進研究発表会において、本件ポロシャツを着用して研究発表を行おうとした際に、被告乙山及び被告丙川が原告に対し、本件ポロシャツを着用したまま発表することを禁じ、もしくは上着を着て本件ポロシャツの字句が見えないようにする措置を講じて発表するように命じる本件職務命令を発したことは前認定のとおりである。
2 原告が着用していた本件ポロシャツには、左胸に「戦争を永久に放棄する日本国憲法第九条」の文字が縦四・五センチメートル、横七・五センチメートル程の大きさで記載され、背中の襟の下に猫のイラスト入りで「せんそうはいやだニャー」と縦四センチメートル、横六・五センチメートル程の大きさで記載されていたところ、被告乙山及び被告丙川の各供述によれば、同被告らが本件職務命令を発したのは、右字句は政治的意見の表明であって、このような字句を記載した本件ポロシャツは、原告がこれを着用して研究発表を行うことにより職員の政治的中立性に疑義を生じさせるおそれがあり、したがって研究発表を行うに際して着用するのにふさわしくない服装であると判断したことによるものと認められる。
3 原告は、本件制止行為は原告の発表内容を危惧して発表それ自体を阻止するために行われたのであり、本件ポロシャツの字句はその口実にすぎない旨主張し、原告本人は、被告乙山が、本件制止行為の前に「あくまでも本校の立場に立った発表をしてくれるならば、服装のことはもういいです。」と述べた旨供述する。
前認定のとおり、研究発表会に先立つ平成六年一〇月一一日に行われたリハーサルにおいて、原告は、高学年の交流について、教師サイドで論議や共通理解が十分でないこと、井堀小学校との交流が制限された条件の中での取組みとならざるを得なかったことなどを述べたのに対し、被告丙川は、研究発表会前日の同月一七日になって、原告に対し、発表の際に井堀小学校の取組みに対する感謝のことばを付け加えるよう指示し、これに反対する原告と三〇分程度話し合ったが、原告は右指示に応じなかったという事実はあるものの、被告丙川がそれ以上原告の発表内容を問題にした形跡はなく、被告乙山及び被告丙川は、発表当日の公開授業を参観した北九州市教委指導部の原岡主幹らから、原告が本件ポロシャツを着用していることを指摘された後、原告に対し、本件ポロシャツは発表会にふさわしくない、あるいは本件ポロシャツの字句が政治的主張であるとして別の服装に着替えるよう指示し、また、発表会の開始直前に、原岡主幹が原告に対し本件ポロシャツの字句が問題である旨告げた後、被告乙山及び被告丙川の本件制止行為が行われたこと、同被告らは、本件ポロシャツの上から着用させるためほかの者の上着を探し、原告に対して金田教諭の上着を着用するよう申し向けるなど、専ら本件ポロシャツの字句のみに着目した言動をしていること、原告が供述する同被告らの発言後も同被告ちの制止行為が継続していることに照らし、原告本人の右供述は措信できず、他に前記認定を覆して原告の右主張を認めるに足りる証拠はない。
右のとおり、本件職務命令は、原告の発表行為自体を妨げようとしたものではないから、憲法二六条の教育の自由を侵害し、教育基本法一〇条第一項で禁じられた教育活動に対する不当な支配であり、教育公務員特例法一九条第一項、二〇条第一項に違反する旨の原告の主張は理由がない。
4 【判旨一】職務に関して権限ある上司から発せられ、実行可能な職務命令は、明白かつ重大な瑕疵がない限り、当該公務員を拘束するものと解すべきところ、前認定のとおり、本件職務命令は、小倉北養護学校の代表として研究発表を行うという職務に関連して、原告の上司である被告乙山及び被告丙川から発せられたものであり、実行可能なものであったことも明らかである。
5 本件ポロシャツに記載されていた字句は、それ自体では単に憲法の一条文の趣旨を記述し、抽象的な戦争反対の意見を戯画的に表現したものにすぎないけれども、憲法九条の改正の当否は、現行憲法制定以来現在に至るまでの憲法改正論議において最も激しく議論されている政治的対立の大きい項目の一つであり、憲法九条の改正反対、戦争反対、非武装中立等を主要な政治的スローガンとして掲げる特定の政治勢力が存在し、長年にわたり、対立する政治勢力と熾烈な論争を続けてきたため、憲法の一条文にすぎない「憲法九条」や国民の普遍的な願いである「戦争反対」の言葉が、特定の政治的意見、政治勢力の主張を象徴する概念と受け取られるに至っていることは公知の事実といってよく、本件ポロシャツの字句を目にした者が、右の特定の政治勢力の主張を連想し、原告が憲法九条の改正に反対する立場を表明しているものと考える可能性は極めて高かったと認められる。
本件ポロシャツはいわば普段着であって、前記の字句も、文字のサイズや猫の文様からして、シャツの意匠をなしているにすぎず、文字を大書して意見を表示するゼッケンや腕章などと異なり、ことさらに他者の目を引くことを目的とする服装ではないが、原告は、ささやかな形態ではあるにしても、前記の政治的主張を表明する確定的な意図のもとに本件ポロシャツを着用し、かつ、本件ポロシャツの字句を目にする者が原告の右意図を認識するであろうことを理解し、期待していたものと推認される。
ただ、前認定事実及び検証の結果によれば、原告が井堀小学校体育館ステージ上の発表台付近に立ったとして、会場の聴衆の多くが本件ポロシャツの字句を容易に読みとることができるほど右字句が大きく、会場の照明が明るかったとは認められない。しかし、最前列の聴衆が読みとることが不可能であったとまでは認められず、また、事前の公開授業において原岡主幹らが気付いたように、研究発表会の参加者で本件ポロシャツに書かれた字句を認識する機会があった者は少なくなかったと推認され、原告が本件ポロシャツを着用したまま登壇し、発表を行った場合、本件ポロシャツに何が書かれているかを知っている者にとっては、その場で字句を読みとることができるかどうかにかかわりなく、原告が、公の場において、政治的主張を記載した衣服を着用して研究発表という公務を行っているというようにその場の状況を認識したであろうことは容易に推認し得るところである。
してみれば、原告が行おうとした行為は、積極的な政治活動を目的とする行為であったとまでは認められず、地方公務員法三六条及び人事院規則一四―七に定める政治的行為の禁止規定に抵触する行為ではなかったけれども、政治的な色彩を帯びた行為であったことを否定することはできず、したがって、被告乙山及び被告丙川において、原告が本件ポロシャツを着用してステージ上で発表する行為を禁止しなければ、教育公務員としての政治的中立性に疑義を生じることが懸念されるとして本件職務命令を発したことには合理性があったというべきである。
6 原告は、公務員の政治的表現の自由に対する制約は最小限度にとどめられるべきであり、法律もしくは人事院規則で明確に禁止されていない行為を制約することは許されないから、本件職務命令は原告の表現の自由という基本的人権を侵害する違法な命令である旨主張するが、憲法及び教育基本法上、公立小学校の教員が、研究発表会における研究発表という公務の遂行にあたり、どのような方法、形態によるにせよ、特定の政治的意見を表現する自由が基本的人権として保障されていると解するのは困難である(なお、原告は本件職務命令が原告の服装の自由という基本的人権の侵害であるとも主張するが、前記のとおり、本件職務命令は原告が着用していた衣服の研究発表時の服装としての適不適ではなく、本件ポロシャツに書かれていた字句の政治的要素を問題としたのであるから、右主張は当を得ない。)。
原告は、また、憲法九六条により憲法の尊重擁護義務を負う公務員が憲法九条改正に反対するのは公務員の政治的中立性に反しない旨主張するが、公務員が憲法を公務を行ううえでの最高行為規範とし、憲法違反の状態を除去すべき職務上の義務を負うことと、現行憲法の一部を改正することの是非についての政治論議の一方の意見を支持することとは異なる次元の問題であるから、右主張は理由がない。
7 以上のとおり、本件職務命令に重大かつ明白な瑕疵があったとは認められない。
二 本件制止行為について
1 【判旨三】一般に、公務員が上司の職務命令に応じない場合、上司としてはさらに言葉による指導を続け、当該公務員がなおこれに応ずる非違行為を行ったときには、事後的に処分権者による懲戒処分に付することで対処するべきであって、当該公務員の違法行為を直ちに制止しなければ重大な損害をもたらすなど特段の事情のない限り、腕をつかみ、身体を押さえつけるなどの有形力の行使は上司の職務権限内の行為とは認められないというべきである。
2 本件において、原告が本件ポロシャツを着用して発表に臨んだ行為に前記のような問題点があったにしても、右行為が女性一名に対し男性二名で、挫傷を負うほど腕をつかむなどの実力行使をしてまで制止しなければならないような重大な損害を生じるおそれのある違法行為であったとは認め難く、被告乙山及び被告丙川の制止行為は、職務権限を逸脱した違法な行為といわざるをえない。
三 【判旨二】本件訓告について
1 本件訓告は、原告が、本件ポロシャツを着用して研究発表を行おうとした行為、これを制止しようとして上司が発した職務命令に従わなかった行為を対象としたものであるところ、原告が行おうとした行為が教育公務員としての政治的中立性に疑義が生じることを懸念させるに足りる政治的色彩を帯びた、不適当な行為であり、原告が本件職務命令に従うべき義務があったのにこれに従おうとしなかったことは前述のとおりであるから、本件訓告が事実に基づかず、または、法的に何ら問題がない行為を対象としたものであったとはいえない。
2 前示のとおり、原告は、公式行事であり、多数の聴衆が注視する研究発表会の場において、被告乙山及び被告丙川の再三の職務命令を無視し、本件ポロシャツを着用したまま登壇して発表しようとしたこと、訓告は、不利益を伴う地方公務員法上の懲戒処分ではなく、指導監督を目的とする事実上の措置にずぎをいことに照らし、本件訓告は裁量権の範囲を逸脱した行為であったとは認められず、これが違法である旨の原告の主張は理由がない。
四 被告らの責任
1 被告北九州市の責任
被告乙山及び被告丙川の本件制止行為は、右被告らの職務に関連して行われた違法な行為であるから、被告北九州市は国家賠償法一条に基づき、右行為により原告が被った損害を賠償する責任を負う。
2 被告乙山及び被告丙川の個人責任
【判旨四】公務員がその職務を行うについて、故意又は過失により違法に他人に損害を与えた場合には、国又は地方公共団体がその被害者に対して賠償の責に任ずるのであって、公務員個人は責任を負わないと解するのが相当であるから(最高裁昭和五三年一〇月二〇日判決参照)、被告乙山及び被告丙川は本件制止行為について個人的に不法行為責任を負うことはなく、これに反する原告の主張は採用できない。
五 原告の損害
原告が本件制止行為により傷害を負った結果、これに伴う精神的苦痛を受けたことは明らかであるものの、右傷害結果は、被告乙山及び被告丙川の腕をつかむなどの制止行為の際に生じたものであって、右被告らが積極的に原告に暴行を加える意図の下に制止行為を行ったわけではないこと、本件制止行為はこれに先立つ再三の職務命令に原告が応じなかったために行われたものであること、傷害の程度は加療五日間の打撲等と比較的軽度にとどまっていることその他本件に顕れた一切の事情を斟酌すると、原告の精神的苦痛に対する慰謝料を五〇万円とし、これに加え弁護士費用のうち五万円を被告北九州市に負担させるのが相当である。
第四 結論
よって、原告の本件請求は、被告北九州市に対して五五万円及びこれに対する平成七年七月二八日(本件訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるが、その余は理由がない。
(裁判長裁判官 池谷泉 裁判官 中嶋功 坂本好司)
参照条文
・人事院規則一四―七
政治的行為
(政治的目的の定義)
5 法及び規則中政治的目的とは、次に掲げるものをいう。政治的目的をもつてなされる行為であつても、第六項に定める政治的行為に含まれない限り、法第百二条第一項の規定に違反するものではない。
一 規則一四―五に定める公職による公職の選挙において、特定の候補者を支持し又はこれに反対すること。
二 最高裁判所の裁判官の任命に関する国民審査に際し、特定の裁判官を支持し又はこれに反対すること。
三 特定の政党その他の政治的団体を支持し又はこれに反対すること。
四 特定の内閣を支持し又はこれに反対すること。
五 政治の方向に影響を与える意図で特定の政策を主張し又はこれに反対すること。
六 国の機関又は公の機関において決定した政策(法令、規則又は条例に包含されたものを含む。)の実施を妨害すること。
七 地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)に基く地方公共団体の条例の制定若しくは改廃又は事務監査の請求に関する署名を成立させ又は成立させないこと。
八 地方自治法に基く地方公共団体の議会の解散又は法律に基く公務員の解職の請求に関する署名を成立させ若しくは成立させず又はこれらの請求に基く解散若しくは解職に賛成し若しくは反対すること。
(政治的行為の定義)
6 法第百二条第一項の規定する政治的行為とは、次に掲げるものをいう。
一 政治的目的のために職名、職権又はその他の公私の影響力を利用すること。
二 政治的目的のために寄附金その他の利益を提供し又は提供せずその他政治的目的をもつなんらかの行為をなし又はなさないことに対する代償又は報復として、任用、職務、給与その他職員の地位に関してなんらかの利益を得若しくは得ようと企て又は得させようとすることあるいは不利益を与え、与えようと企て又は与えようとおびやかすこと。
三 政治的目的をもつて、賦課金、寄附金、会費又はその他の金品を求め若しくは受領し又はなんらの方法をもつてするを問わずこれらの行為に関与すること。
四 政治的目的をもつて、前号に定める金品を国家公務員に与え又は支払うこと。
五 政党その他の政治的団体の結成を企画し、結成に参与し若しくはこれらの行為を援助し又はこれらの団体の役員、政治的顧問その他これらと同様な役割をもつ構成員となること。
六 特定の政党その他の政治的団体の構成員となるように又はならないように勧誘運動をすること。
七 政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、配布し又はこれらの行為を援助すること。
八 政治的目的をもつて、第五項第一号に定める選挙、同項第二号に定める国民審査の投票又は同項第八号に定める解散若しくは解職の投票において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること。
九 政治的目的のために署名運動を企画し、主宰し又は指導しその他これに積極的に参与すること。
十 政治的目的をもつて、多数の人の行進その他の示威運動を企画し、組織し若しくは指導し又はこれらの行為を援助すること。
十一 集会その他多数の人に接し得る場所で又は拡声器、ラジオその他の手段を利用して、公に政治的目的を有する意見を述べること。
十二 政治的目的を有する文書又は図画を国の庁舎、施設等に掲示し又は掲示させその他政治的目的のために国の庁舎、施設、資材又は資金を利用し又は利用させること。
十三 政治的目的を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し若しくは配布し又は多数の人に対して朗読し若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し又は編集すること。
十四 政治的目的を有する演劇を演出し若しくは主宰し又はこれらの行為を援助すること。
十五 政治的目的をもつて、政治上の主義主張又は政党その他の政治的団体の表示に用いられる旗、腕章、記章、えり章、服飾その他これらに類するものを製作し又は配布すること。
十六 政治的目的をもつて、勤務時間中において、前号に掲げるものを着用し又は表示すること。
十七 なんらの名義又は形式をもつてするを問わず、前各号の禁止又は制限を免れる行為をすること。